RE:プログラミングの「抽象化」ってどういう意味で、なぜ必要なのか
さて、nobkzです。UX Fukuokaの活動ばかり書いてましたが。 久し振りにポエム書きます。
今回は、
nekogata.hatenablog.com と bugrammer.hateblo.jp
に関してのアンサーブログです。
nopが「世界一の抽象化だ」の納得と違和感
さて、「何も書かないことが世界一の抽象化だ」という論理について納得する一方違和感を感じ、考えてみたことを述べていきたいと思います。
まずは納得する面から。
抽象と捨象
個人的には、「抽象」という言葉は、ソフトウェアの世界に限らず、一般的用語だと思います。ここで、適当に辞書を取ってきて意味を見てみると
《名・ス他》多くの物や事柄や具体的な概念から、それらの範囲の全部に共通な属性を抜き出し、これを一般的な概念としてとらえること。
とあります。抽象というのは、「全部に共通は属性を抜き出す」ということが含まれています。その、「抜き出す」という行為の裏には、「共通してないものを捨て去る」ということがあり、それで「捨象」という言葉が、「抽象」と同義語としてあります。
《名・ス他》(概念を抽象する作用の反面として)現象の特性・共通性以外を問題とせず、考えのうちから捨て去ること。
捨て去ると何もなくなる。
さて、一理あるなと思う点は、この抽象という行為の中に「捨て去る」というこういがあるからです。なるほど、そりゃあ、全部捨ててしまえば、何もなくなるのはその通りだなと、いうことです。
また、集合論的に言えば、「空集合はすべての部分集合である」ということを言っていると、似ている感じにもなり、その点で、通じるものがあるということです。他にも、ゼロの概念とか、「空」の概念とか、東洋思想的な感覚になります(笑)。
違和感
上記の点で、一理あるなと思う反面、おかしいなと思うことがあります。その点を書いていきます。
抽象したものがない
まず、抽象した結果が、「なにもない」ということです。これは、果たして「抽象した」と言えるでしょうか? ある意味、「抜き出すものが無い」=「抜き出してない」とも考えられ、それは「抽象したものではない」とも言えそうです。
ここらへん、Russell's paradoxを思い出します。ただ、 ここらへん深く書いていくと、型理論まで発展して泥沼になりそうなので、これ以上書きません。
抽象と構造
抽象としている場合基本的には、構造があります。 上記のnopの話は、「構造化されてない」という点で、抽象とは異なる言えそうです。
ここまでずっと、ソフトウェアに限定しない、話をしてきましたが、「抽象」と「構造」もソフトウェアだけのものではありません。
エスノグラフィーや心理学などの、質的、定性的データを使う分野では、「ラダーアップ、ラダーダウン」という質的データの構造化分析手法がありまして、ラダーアップは、「事象」から「抽象概念」までの構造化、ラダーダウンは「抽象概念」から「事象」までの構造化であります。また、KJ法(こっちの方が良く聞かれるかもしれないですね)なども構造化手法の一つでしょう。
なにが言いたいかというと、そうした、「構造」なくして、「抽象」はありえないのではないか?ということで、そこが違和感の一端になっているということです。
ソフトウェアの「抽象」
さて、全般的な文脈から語ってましたが、ソフトウェアのコンテキストを考えて、抽象を考えてみましょう。
「良い」と「正しい」
まず、一点あるとすれば、「抽象」としては「正しい」けれども、「良い」ものでは無いという場合があるということです。 ソフトウェアで、抽象するときは、システムを作る上での、「抽象」する上での意義があるということです。
新しい意味付け、メタファー
個人的な意見としては、抽象化の先に、「良い意味付け」が基本的には、ソフトウェア的に「良い抽象化」では無いか?と思うことです。
システムを構築する上での、抽象化のした最後に待ってるのは、「名前付け」であり「意味付け」です。どう意味付けするかによって、ソフトウェアの「抽象化」の「良い、悪い」が出てきそうです。そして、「名前付け」というのは、つまり「良いメタファー」を作ることであり、その点に関して、みなさん苦心されているのかなと。
良いメタファーを作ることは、「使う側」にとって、「どのように使うのか?」というのかが、明確になり、その結果、適切な組織化が可能ということだと個人的には考えてます。
ある意味、これは表示的なもであり、良いインターフェースを設計することが「良い抽象」としての活動に含まれていそうです。そこに、「操作的」なものを入れてしまうと、無意味な抽象となってしまいそうです。
具体と新しい意味
さて、上記2つの記事において、いくつか、コードが出てきました。
def transfer_gold # user_1 から50G引いて user_1 = User.find(1) user_1.gold -= 50 user_1.save! # user_2に50G足す user_2 = User.find(2) user_2.gold += 50 user_2.save! end
さて、これが、元となるコードで、いくつか変更を加え、
def transfer_gold(amount, from_user_id, to_user_id) user_a = User.find(from_user_id) user_a.gold -= amount user_a.save! user_b = User.find(to_user_id) user_b.gold += amount user_b.save! end def pay_service_fee(customer_id, store_id) transfer_gold(50, customer_id, store_id) end
こうなってました。
さて、これを、僕の観点から、言えば、「抽象化」の他に「意味付け」を行なっているということであります。 1や2という数字の意味、、50という数字の意味は何か?そういうことを考えていたと思っています。
「悪い」抽象化というのは、その意味付けが良くないということです。もし変数名が、amountじゃなくて、単なるxだとしたら、それは良くない抽象でしょう。
nopのコードに関していえば、構造化、意味付けを行っていない点で、抽象というと「違和感」や飛躍した原因だと考えています。
まとめ
まとめますと、nopという抽象に関しては「捨てていく」と考えると、一理ありますが、しかし、構造になっていない点、意味が無い点で、抽象とは言えない要素があるということです。
まだ、言いたりないような気がしますが、ここまでにしておきます。
沖縄UXシンポジウム2015にいった話。
超絶久し振りに書く。 今回、沖縄UXシンポジウム2015に行った話。
CREATIVE ISLAND-Webを中心としたプロモーションの交流会・勉強会in沖縄
こういうレポートエントリは、「鮮度」が大事だと思うけど、なかなか書くタイミングが無かったので、今更ながらレポート。
沖縄UXシンポジウム2015にいった話。
LTの準備
今回は、LT大会があったので、僕も登壇に参加した。
いつもはエンジニアの勉強会で、発表やLTをするのですが、今回はUXということであり、まだ慣れてない状況でやるので早めにイベント告知されて、参加登録した時から、準備した。
結構いろいろ悩だかな。何を話すのか? 間違ってないだろうか? とか。そんで、話す内容が纏まらなくて、結構スライド作りが遅れた。もっといろいろ、スライドに手を入れようと思ったけど、できなかった。
前日。
さて、前日、金曜日の夜のPeachの飛行機に乗り、沖縄に行った。仕事を終えてから行くので、夜の便を予約した。
台風で飛行機が遅れに遅れたので、夜中の9時あたりに付く予定が、夜中12時を過ぎたあたりに到着した。それで、那覇の国際道路までタクシーで行き、ソーキそばを何故か食べた。
量が多かった。そのあと、泡盛をどこかで飲んだ。写真は取ってない。
んで、カプセルホテルに行って寝た。
なんか個室だった。
当日
朝は、なんとなく朝食のモーニングが出てた。なので、食べた。量が多い。
んで、なんとなく電車(モノレール)に載って、なんとなくバスに載って、会場に向かった。
モノレールの切符。QRコード。沖縄のキップは、機械に通すのでは無く、タッチしてぴっとする。
改札を出るときは、キップ回収Boxがある。
そんで、会場の建物に到着した。
UX沖縄シンポジウム
さて、UX沖縄の会場に付いたとき、コーヒーをのみながら、LTのモニターテストとかしながら、開始を待った。すると白鳥さんが、開始の挨拶をして、始まった。
伝わる仕組みとサービスデザイン (坂田さん)
最初は、UX Tokyoの坂田さんのお話。 内容とか、感想は他の人が纒めている( サービスは恋するようにつくるべし/「UXシンポジウム沖縄2015」坂田一倫 )ので、詳しくはそちらに。
良い話でした。自分なりの言葉にすることが大事だなと。それと、恋がしたい。
LT大会
僕を含めてUX Fukuokaから2名、UX Hiroshimaの方が1名、それと沖縄の人達5名の、LT大会。 10分という時間はLTにしては少し長めな感じだったけれども、なかなか面白かった。
なんとなくだけど、全体的に、インターフェースに関する話題が多かった気がする。
僕は、エンジニアとしての視点として、また、これまでのUX Fukuokaで活動による学習からの、エンジニアに対して、何か言えることを話した。
そのあと、浅野先生に褒められました。嬉しかったです。今後とも精進します。
あと、いろんな書籍からの寄せ集めでは無く、自分で考え、実践して行ったものを、また言葉に置き直すことは大事だと思った。書籍を読んだだけでは理解したことにならない。実践して実感し、ひたすら振り替えり、自分の言葉に置き直すことは大事だな。と思った。
浅野先生の話。
いつもの講義。スライドがバージョンアップしているのが面白かった。
その時、少し考えたのは、ビッグデータを利用してビジネスをやる話。エンジニアは「データ」を使いたがり、ユーザが見えなくなっているのでは?と、最近良く思うので。
「データ」を使ったビジネスは、何故、「売上が上がるか分からない」という発言を良く耳する。そこのところを良く考えなければと思った。
シナリオ法のワークショップの時は、僕はアドバイスする側に周るということだった。教えることも学習の一貫と思ってたけれども、あんまり教えられなかった。
みんな、黙々と書いていた。思ったのは、とりあえず、初めてなのもあるだろうが、なんとかく、「自分のシナリオ」を書いていて、「ペルソナのシナリオ」を案外、書けてないなと思った。シナリオを書くのは、難しい。
懇親会
流石沖縄。オリオンビール。
いろんな人としゃべって分ったのが、来た人は、案外、東京などから引っ越してきた人が多かった。もともと、沖縄の地元の人が少なかった。
二次会以降
ビアバッシュも終わり、そのあと、二次会
カキ食べた。
飲んだ。まさかの3次会。
ネコと、戯れながら帰った。
翌日
とりあえず、那覇市内の商店街をブラブラした。
ラジオ体操していた。沖縄方言(ウチナーグチ)でラジオ体操していた。歌詞分からん。
こんな感じの曲。
飲んだ。
みんなのほんだな。
帰り
帰りは、モノレールに乗った。
帰りもピーチ航空。安い。
最後に。
いろいろ、新しい学びができて良かった。今後とも、ユーザの事を見て、考え、調査して設計して、評価して、行きたい。
こういう、外部との交流は、知識の偏りに気付くときもあり、重要だと思った。また、積極的に外部のコミュニティの活動にも参加してみようと思う。
UX Fukuoka 研究会 Vol.1をやってきた。
今回は、写真はない。
今回から、UX Fukuokaインタビュー研究会から、改め、UX Fukuoka Vol.1の研究会をやってきた。 名前を変更した理由は、最早インタビューの研究してないからだ。
ただ、名前を変更した言うても、前回の続きを今回はしただけである。今回は、ストーリーボードを作成した。
UX Fukuoka研究会
さて、今回は、人数を待っている間、雑談をした。今後のUX Fukuoka周りの活動をどうするか?とかそんなん。 もっと、実践的な活動を目指したいですね。
復習
そして、最初に、まず、前回の復習をした。前回はUX総会をやっていたので、実質、前々回の画面遷移図を作成してから、1ヶ月くらい時間がたっている。これぐらい立つと、復習に時間がかかる。毎週よくやれたものだなと思った。
さて、前回の復習、ふりかえりをした後、というか、前回やったことを思い出すと、今回やるべきことが見えてくる。
ストーリボード
さて、今回は、ストーリーボードを作成した。いろいろ、簡易ストーリーボードや、UXフロー、画面遷移図や、アクティビティシナリオを参照しながら作った。
ストーリーボードを作成するとき、絵や写真を張るのだが、その絵はできるだけ、画面を眺めるようなことにはならないように注意する。また、シナリオを書くときは、勿論「インターフェース用語」を使わないである。これが、毎度ながらちょっと考えるのだ。
さて、ストーリーボードを作ったのだが、なんだかんだ、いろいろあって、みんな、4枚のストーリーボードに収まった。みんなのストーリーボードが重複するかなと思ったら、案外しなかった。んー、良いのだろうか?
次回
さて、次回は、ワイヤーフレームを作って行く。
若者は捉えられない
若者は捉えられないものになっている。
最近、よく思うのが若者の周期が早くなってきているということだ。「若者」というのは、たぶん1年もすれば、全然違う文化になる。
また、若者自体も、多様化していて、ある若者集団と、他の若者集団の乖離が激しくなっているとは思っていると思う。
その結果、「若者」というのが、凄く捉えられないものだと思うのだ。そのことについて、いろいろ書く、まぁ、思いついたことを適当にパラグラフにしているだけだら読みにくいとは思うが、悪しからず。
「今の若者は~」の違和感
「若者はだらしがない」というのは、普遍的に言われてきたことだが、ただ、その「若者」というのが、若者をどこか捉え切れてないような感覚になるのだ。すっごく局所的な一部分を言っているように感じる。
たとえば、「今の若者は、○○を知らない」とか言う発言があると、とある学生が「私、19だけど、○○を知っているし、使ったことあるよ」とかいうコメントが散見される。また、どっかの講師みたいな人が「今の若い人は、勉強しない!」とか言うと、また別の講師が「嫌、今の若者は勉強するよ」とか言う。どちらも、ある程度、当たっていて、ある程度当ってないのだ。
それはなぜか?と考えると、若者が凄く多様化していて、捉えようもないものになっているこうことだ。「若者」という限定をするとどこか絶対に的が外れた集団が存在するのだ。
「今の若者はビートルズを知らない」という違和感
今の音楽専門学校の学生は「今の若者はビートルズを知らない」ということを以前どこかの世間話で聞いた。けれども僕は凄い強烈な違和感を感じたのだ。僕はなんだかんだ音楽に近い集団に居たので、「ビートルズを知らない」という人は、ほとんど聞いたことが無かった。
むしろ、凄い洋楽に精通した「若者」も沢山いる。彼らは、いろいろ洋楽についてググり、また、洋楽のお店に出向き、レコードを書い漁ったりする人も結構いた。そして、「ブライアン・エプスタインは偉い」とか言うのだ。
モノ知りな若者
そういえば、若者っていうのが、なにか凄いモノ知りになっているような気がするのだ。「wikipediaより一時ソース」とか「インターネットは信憑性が薄い」とか言いながら、おっさん達やおばさん達が、インターネットを使わない間に、若者が散々インターネットを使い倒し、なにか凄くモノ知りになってるという状況になっているのだ。
ただ、これは一部の「若者」だけというのに注意したい。けれども、テレビを見続けているおっさん達よりかは、インターネットを使い倒している若者はよりモノを知っている。そして、激しい世代間格差を生み出している。価値観が全然違う。
モノ知りじゃない若者
一方、モノ知りじゃない若者も存在する。そもそも、「パソコン」や「スマートフォン」を持てない若者だ。彼等は様々な理由で、ある意味従来的な価値観を持っている。そして、「モノ知りな若者」との話がどこか全く噛み合わない。そして、若者同士の議論が初まるのだ。
グループが違えば、若者は全然違う。
「モノ知り同士」でも話が全然噛み合わないことが良くある。SNSやtwitterに属しているグループが違うと、「若者」は全く違う「若者」になる。そのグループでは価値観を共有し、また、その中で彼らなりに交流を深め、情報を交換したりするのだが、そのインターネット上の集団が違えば、その「若者」の考え方も全然違うものになる。
メディアの違い
この話をまとめてみると、「メディア」が異なるってことだと思う。つまり、あるグループの若者集団と、別のグループの若者集団の、「メディア」の存在が全然違うのだ。従来は、ある意味、テレビやラジオ、雑誌などの、マスメディアの役割によって、その世代の価値観を共有することができたが、今や、その若者個人が属する集団によって、「メディア」が全くことなったものになるということだ。
若者の周期が早くなっている。
ところで、最近、若者の文化の周期がどんどん高速になって来ている気がする。1年もすれば、全然違う文化ができあがる印象がある。
デバイスやソフトウェアの変化
デバイスやソフトウェアの変化が凄く早いと最近思う。最近スマートフォンやらが出てきたり、また2ちゃんねるや、Mixiや、twitterやfacebook、Lineなどいろいろなものが出てきたり、また、音楽に関しても、古くはウォークマンから、iPod、iPhoneのYoutubeになったりいろいろ変化している。
とすると、「若者」も変化する。たとえば、初めて合う人間で、「連絡先交換」といえば、昔は赤外線とかで、emailや電話番号を交換していたのだが、それが、「facebookの友達申請」に変化し、今や「LINEのID教えて」である。
僕は今、26才で、普通にパーソナルコンピュータを使い倒していて、当然のように、リテラシーがあるのだが、そのすぐ下の世代は、スマフォ世代で、パソコンが使えないということも思い出す。
メディアの変化
メディアから教授するエンターテインメントが全く違う。flash動画や、youtubeや、nikoniko動画などはあんまり長期化しないし、見ているものが全然違う。
常識の変化
そのおかげで、「若者の常識」の変化のスピードが早いとは思っている。つまり少し上の世代のコミュニケーションの形式が異なってくるため、上下の交流が無く、その結果、共有している常識が1つ異なれば、全然異なってしまうという自体がコミュニティによっては起きている。
若者は「常識」を共有しない。
常識がほとんど無くなっている気がする。いや、集団やグループやコミュニティでは「常識」を共有しているのだ。その集団や世代の中で、メディアが異なり、共有する価値観や、若者のありさまが全然違ったものになるのだ。
結局のところ、「今の若者は~」というのは、上の世代の凄く狭い「若者の常識」でしか無いということである。「若者」に対する、視野が狭いというかね。
HCD-Net Forum 2015に行ってきた話。~~ 1日目 ~~
に行った話をしよう。
HCD-Net Forum 2015に行ってきた話。
僕が、HCD-Netに行こうと思ったのが、HCD-Netがある週の、火曜日の事であった。UX Fukuokaで読書回を最近やっているのであるが、その時、HCD Netの話題になったので、サイトを見て行きたくなった。それで、なぜか「行きます!」と宣言したので、その当日の深夜に、東京行きのLCCのチケットを予約してしまった。
当日の午前、スカイマークの、11時50分、羽田着の便に乗り、東京へ到着。そのまま、地下鉄に乗り、泉岳寺の駅に降りる。前日に会場が「東海大学高輪キャンパス」という場所だったので、東海大学のHPを調べて、「泉岳寺(せんがくじ)」を知った。
しかし、東京の地下鉄はヤバい。
んで、そこから、高輪(たかなわ)キャンパスまで、歩き。道中で、お寺や、階段があったりした。
んで、なんか丘?なのか山?があるのが分からんが、とりあえず坂を登って、東海大学へ。
いや、こっちじゃなかった。こっち。
んで、到着ー。
キター!!!!!
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
若干時間に余裕があったので、書籍展示を見る。お馴染の書籍たち。
あと、HCDの本。
あと、こんな感じ。
だいたい持ってた。持ってないのもあるけど。CMである。
基調講演
さて、基調講演である。
黒須先生「HCD-Netのこれまでとこれから」
まずは、黒須先生。「HCD-Netのこれまでとこれから」。なかなか、HCD-Netについてのお話し。ほぇーってなった。あと、最後の方で、「いろんな領域がある。だけど、ユーザ視点を忘れるな。ビジネス視点は重要だが、売上重視に走るな。都合の良いユーザ像を作るな。長期的UXを考えろ。」という感じのことを言うてた感じ。ほぇー。
森川 亮氏( (株)LINE元代表。 今は、(株)C-Channelの代表)
講演があって、途中、会場とのディスカッションがあった。当時のtw/fbの分析から、LINEの創業の経緯やらの話があった。そんで、LINEのマネジメント。ユーザの事より、その組織内部のお話な感じ。日本は、「計画」を変えることに倫理的な抵抗があるとか、野球型組織とサッカー型組織やら、そういうお話。あと、C-Channelの話。縦長と横長のディスプレイの話は面白かった。
「お客さんに求められるプロダクトを作れなくなったら死ぬので、ユーザの事を考えようよ。」
と言う感じのこと言ってたので、なかなか印象に残った。
基調パネルディスカッション1 : 「これからのHCD/UX、デザインとイノベーション」
なんか、時間が無かったので、ディスカッションは無かったのだが、面白かった。
隈元障次氏( (株)Side4D 代表) 「情報の視覚化デザイン」
データビジュアライゼーションの会社。すげぇー。会場の人が写真取りまくってた。サッカーの情報の視覚化や、野球選手の情報の視覚化がやっぱり印象的。すげぇー。キラキラしてう。「一般人の人が革新的だと感じる」とかそんなこと言ってたような。とにかく、最後の方、良く分からないこと言ってたような。(うる覚え。)
渡邊 恵太氏 ( 明治大学総合数理学部 専任講師 ) 「融けるデザイン」
インターフェースのお話し。マウスカーソルがどうして、「自分で動かしている」と感じるのか?から、自己帰属感の説明。それから、IoTで、インターネットのインターフェースを作る話し。なかなか、面白かった。「インターネットって不便じゃね?」みたいなこと言うてたのが、面白かった。
基調パネルディスカッション2 「これからのHCD/UX: サービスとイノベーション」
若干、ハイレベルな感じがした。
持丸正明氏 (産業技術創業研究所サービス工学研究センター センター長)「 ISO国際標準 : Human Centered Organisation 」
Human Centered Organisationの話。EQUID(Ergonomic Quality in Design)の話。Ergonomicのことは良く分からん。ただ、Humanが、Userだけで無いってことが分かった。すげぇ概念が広がった感。HCDの領域跨がり過ぎてるだろ。あと、スライド英語が多かった。
武山正直 氏 (慶應義塾大学経済学部教授) 「サービスデザインのこれから」
サービスデザインのこれからの話。プロダクトの概念が変わって来ているとか。グッズ(有形)からサービス(無形)の変化。体験価値で差別化しろとか。あと、サービスエンタグルメントの論文が面白いらしい。こんど読む。IoTでサービスデザインやると、サービス同士の連携を考えるということらしい。IoTバズってる。
竹部陽司 氏 ( (株)リクルートテクノロジーの人 )「UXDの職能要件、とキャリアパス」
リクルートテクノロジーのUXDについてと、そのUXDの人材についての話。UXDって一杯あるけど、全部できる奴はいない ー> なので、ちゃんと、キャリアを考えて、職種を決めつけるのでは無く、職能を選択して、変化に対応しよう!。みたいな話。すごい進んでるなーって感じがした。
ディスカッション
ファリリテーターは、長谷川敦氏。いろいろと面白かった。HCDを組織に適用するとき2つの解釈があって、HCDができる組織になることと、内部の人間にHCDをする事があるようなんだな。
あと、写真が気になりまくった。
懇親会
懇親会があった。浅野先生から、「福岡でやってきた事一辺に学べたでしょう?」とか言われた。その通りだと思った。なんか、スッキリした感じ。UX Tokyoの人や、日立の人、ソニーの人、DMMの人とか、HCDを組織に導入して行こうとする会社の話とか聞けて良かった。みんな苦労してるなぁ。
地震
その日は、とりあえず、上野のカプセルホテルを予約してたのだが、地震で新橋のカプセルホテルに泊まった。
地震で、品川のホームに居た。電車動かないので、一端改札を出ようとしたけど、めっちょ並んでう。
とりあえず、立ち食い蕎麦でも食べて、時間を潰した。
店員のおっちゃんが、地震に気づいてなかた。図太い。「地震があったの? はぁ、ダシが揺れてると思ったけど。」
なんだかんだ、上野まで、行く電車に乗って、なんとか新橋まで行ったのだが、満員電車に負けて、新橋のカプセルホテルへ。満員電車、嫌い。
なんか、いろんな意味で疲れたので、その日は結構眠れた。
-> 2日目に続く。
UX Fukuoka インタビュー研究会 Vol.14
ひさしぶりにやった。
今回はGroovenautsのコミュニティスペースをお借りしてやりました。
UX Fukuoka インタビュー研究会 Vol.14
今日は、メンバーとしては、主要メンバー3名、良く来る見学者1名でやりました。途中から、参加メンバー1名増えました。
最初に前回のまとめ、と今回やることを書いた。
とりあえず、今日、ホワイトボードが嫌いになった。とりあえず、字がきたないのはホワイトボードのせいです。プロッキーでホワイトボードに文字を書いたりしてしまったりとか起るのは、ホワイトボードのせいです。
さて、今日は、前回、だいぶ前にやったのを見ながら、画面遷移を作成していきました。とりあえず、前回のUXフローがみんなバラバラに書いたので、それを統合しながら、画面を整理していきました。
まず、バラバラのシナリオでやっていたので、重複があったり、足りないところがあったりして、纏めたり、足したりしたりしました。
ある程度、まとまって来たところで、途中参加のメンバーがやってきて、とりあえず、簡易的にウォークスルー的な、評価をしてもらった。
そうすると、いろいろ知らないうちに、途中のシナリオで、変に機能を追加したりしていたりするがあったりすることに気づいた。ベテランとかによくあるらしいのですが、変に気を使ってはいけないんだなと思いました。
また、自然とやってしまうところもあるので、レビューや振り替えり、知らない人を入れたりというのは大事だなと思いました。
次回
次回は、ストーリボードと完成させるところまでが目標かな。
そろそろ、区切りまで近づいた!!!
「にも通じる」「同様の事が言える」とじゃなくて、違いを探そう
さて、今日も頭で考えたことを外に出していく。
つらつら書いていく。
「にも通じる」「同様の事が言える」とじゃなくて、違いを探そう
自分の事を話したいだけじゃないか?
いろんな人が、いろんな事を言っていて、僕も何か言いたいこと、聞きたいことを書いたり、読んだりしているのだが、以前から、「それって、○○でも同じ事が言えてー」っていう発言は良く目にする。
実際、まぁ、そういう情報を提供してくれるのは良いし、すごく有用で、参考になる事例もあるんだが、ほとんどの場合つかえない事がたくさんある。
しかし、ほとんどの場合、どーでも良くて、「そうか。」ってなる。なぜなら、「○○にも同様の事が言えて~」という発言は経験上、自分の事を話したいだけだったりする事が多い。その場合、たいてい、本当にどうでも良い。
状況がまるで違う
また、「○○にも通じる」と言ったとき、その通じる状況が全く異なってて、問題の本質の根本が全然違うことが良くあるのだ。その場合、話題を最初に出した人の言いたいことが伝わらない事が多い。そして、消化不良になるのだ。
それは、そもそもだから文脈が把握できてないのだし、しっかり「聞け」って言うことだが、人は文脈に引っぱられてしまうので、仕方ない面はあるのかもしれない。
「違い」を探す
さて、どうすれば言いか? とすれば、「違い」を探すことだ。何かといえば、「似ている」という状況の背景には、必ず、「異なった常識」が存在するからだ。その事なった常識が、その人の社会システムを知ることになる。そこで、新しい考えが生まれるかもしれない。