「車輪の再発明」を単純に否定することで失なっているもの

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ソフトウェアの世界では、基本的には「車輪の再発明」は否定されている。しかしながら、本当にそうなのだろうか?と思うことが、最近、いや、ここやってきてずっと思っていることがある。そして、この匿名の記事を読んで、またなんとなく思うことをがんばってかいてみる。

車輪の再発明はなぜ否定されているのか?って、既にそれがあるのに、自分で開発したり発明したりするのが無駄だからだ。ここで、「無駄」って考えてみれば、社会全体として無駄であるだけで、個人の主観ではないのだ。既にある製品だったり、機能だったり、それを、再び開発するって行為は、その全体としては無益だが、もしかしたら、個人では、有益なものかもしれない。その製品の使い方が分からなかったり、そもそも知らなければ、その個人にとって「もう既にあるよ」は、まったく意味が無いのかもしれない。だって、その問題にあたったときにはその人には知らなかったか、もしくは理解できなかったのだから。「車輪の再発明」ってのは、そういった個人に関する問題を、全体主義的なもので無視している気がするのだ。個人の視点をつぶしているのだ。

車輪の再発明」また、思うことがあって、それは何か?って言うと、古参と新参の格差である。新規性を求めると、分野によっては、新規から見ると、開拓されつくして、膨大になりすぎてて、もしかしたら、飽和されている状態のように思えてしまうことがあるのだ。新規を求めるためには、既存のものを知らなければいけない。そのところで、既存のものが大量にあるところでは、参入障壁がすごく高くなる。新参はつらいだろう。しかしながら、その分野と一緒に成長できた、古参はすでに知識が経験があるので、新しいものがつくり続けられる。その古参が新参だったときには、その分野はなにもなく、「車輪の再発明」の必要性が低かったかもしれない。

新しいなにかをつくるために、既存のものが多くなっている状況はすごくマズイかもしれない。なにも生まれなくなってしまうかもしれない。なにかをつくるためには、既存のものを知らないといけないってことは、負担が増えるのだ。そうすると、そこまで登るのに必死になって、その上になにかを積むための、「積み方」をわすれてしまうかもしれない。ものづくりでいえば、簡単には新しいものをつくるために調べごとばかりして、肝心の「手の動かしかた」みたいなものが身につかないかもしれない。

「なにか新しいこと」をつくる方法が必要なのだと思う。「その人が知らない」新しいものをつくる方法を否定するべきではないと思う。「もう既にあるよ」は、あまりにも全体主義すぎてなんというか暴力にも感じられる。なにか大切なものを見落してるのではないだろうか? もし、「新しいもの」をみつけたりつくったりできる方法がみにつけば、いつか全体でも良いものになるかもしれない。そのためには、そこまで車輪の再発明を否定するべきではに。「発明する技術」が必要な気がしてならない。