カタンの魅力と怖さ

最近、カタンをよくプレイすることが多くて、そして、ずっと思うことと、ちょっと思うことがあったので書いていく。

カタンは面白い。その面白さにはいろいろな意見があると思う。楽しみ方も人それぞれだ。僕は、「ゲームが勝ち負け関係なく、自分と『プレイしている面子』、そして『観戦者』も含めて、それぞれが楽しいと思える」ということを重視している。これは、そもそもカタンのみならず、僕がプレイするボードゲーム全般に言えることなのだが。

僕が最近気がついたのは、そういうプレイスタイルだから、僕はゲームに強いんだ。と思うことが良くある。ボードゲームってのは、一つに他人とのインタラクションを楽しむってのがあると思う。「自分がこういうプレイしたら相手が楽しいだろうか?」ということを考えるってことは、自然と相手の視点に立つことになる。そこには、「自分がこういうプレイをすると相手がどういう状況になるんだろうか?」「相手がそういう状況になったら、どのようなプレイが可能になるんだろうか?」とか自然と考えるようになる。また、相手を良く見ることになる。「相手の手札は何枚で資源はこれだけ持っていて」だとか「相手の資源の産出量は」とか「相手から見たら自分の手札は」とか、相手に関する情報を自然と把握するようになる。自然と相手の動き方を予測できるようになる。

あと、相手の動き方を予測できると言ったが、その期待に反する行動をして、なるほどってなるのも楽しいし、実は僕はそれが面白いなぁと思う。以外な動きをすると本当に面白い。学びがある。また、相手の演技や表情を見るのも面白い。「お~」とか「すごい~」とかよく喋っていたかと思えば、余裕がなくなると何も言わなくなるみたいな。カードを並べる癖だとか、沢山資源が出たときは、トレイからしれ~っと資源を取るとかね。

こう考えると、ふと、カタンの作者、クラウス・トイバーの言葉に「『また明日あなたと遊びたい』と、言われるようなプレイで遊びましょう。」を思い出す。それは、やっぱりゲーマーを強くする言葉だと最近思う。やっぱり、クラウス・トイバーは偉大だ。

あと、相手の動きのみならず、「観戦者が楽しい」というのも重要だなぁと思う。よく面白いと言わるゲームは観戦者が楽しくなる要素がある。それは、実は「負けても楽しい」と思える要素だと思ったりもする。そして、またこれもゲーマーを強くする。それは、一つに俯瞰的な視点を得られるということだ。 僕はこのゲームがテレビで放映されていたら、視聴者は楽しいだろうか?という見方をしている。やっぱりそれは、自分や相手の視点だけでない、客観的な視点を得られる。ゲーム上で何が起っているのか?というのが把握できるようになる。また、ゲーム上においてのマナーや発言が楽しくあるようにする。まぁ、僕は雑で気が聞かない性格なので、よく失礼を働いて申し訳ないと思うのだが。

さて、最近のことを話そう。最近ちょっとカタンをプレイしていて、カタンの怖さと感じることがある。しかし、それは逆にカタンの面白さである。それは何か?というと、カタンが一つのミスですごくゲームが動くんだと思うのである。それは最近いくつかあった。

最近、てか、昨日の深夜、てか今日の午前か。10点、5点、5点、5点でゲームで勝った。それは、他がゲームの初心者ではなく、ゲームをある程度プレイしている経験者である。むしろ、強いと思う人達である。

僕はわりと、先行して逃げ切りたいタイプであって、先行して逃げ切るには、単純に生産量パワーやゲームの展開の最適化を行なうようにする。そのプレイだと、わりと叩かれる。飛び抜けてしまうので、みんなで、飛び抜けた人を叩こうとする。そして、1 vs 3になる。ちなみに、それが僕にとって楽しい状況である。他人が以下にして僕を苛めようとするのが観察できるからね。そして、わりと盗賊を置かれたりするのが気持ちが良い(笑)。とある人から、ドMと言われまくっている所以かもしれない(笑)。

んで、先の、10点、5点、5点、5点でゲームで勝ったときというのは、なぜそういう状況になったかと言えば、たった一軒の開拓地のせいである。一人のプレイヤーが、トップ目(僕)ではなくて、他の人が建てたいと思うところを妨害するようなところに開拓地を建てたプレイをしたのである。そのおかげで、3人が協力体制にならず、その人との生産力の勝負になってしまう。

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ただ、その時僕は、すごくぞっとしたのだ。よく考えればそのミスは観戦者の視点からはありえない置き方かもしれないが、その人から見ると、ある意味最善手に見えるからだ。わりとしやすいミスであると個人的には思う。しかし、それで、このようなワンサイドゲームができるとはという感じである。僕は、その時は、勝ったときに嬉しさを感じるというより、ゲーム全体として、「こういうこともあるんだぁ」という思いである。

そして、その時は、その後にもう一戦やって、僕が勝ったのだが、僕の反省としては「どうしたら、もっと周りを楽しませられるんだろうか?」という点をずっと考えていた。しかし、競技である以上、ゲームの非情さってのは付きものなんだろうなと思っている。その非情さが、ゲームを面白いと思わせるものでもあるのだ。

また、もうひとつ話そう。僕が8点、周りが、9点、7点、6点の盤面である。6点の人の視点に立つと、やっぱり9点は怖い。だから、9点に集中してしまう。そのような状況である。しかしながら、僕は、7点を注目していた。なぜなら、9点の人は、道を2本建てて、家を建てないと勝てなくて、まだまだターンが掛るからだ。最大の生産力を持ったとしても、2ターンはかかる。そのような状況で、怖いのは7点の人である。騎士王か道王を取り、1点を稼ぐみたいなプレイが1ターンでできるような、最大生産力を持っている。それが起こる確率を持っていた。そして、6点の協力体制を築くかないといけない時に僕は築けなかったなと思うときである。どう説得すれば良かったのだろうか?と思うことがよくある。似たような事例で最近良く負けることが多いなぁと思う。

最後にもうひとつ、僕は、とあるところに開拓地を建てて…ってことを考えていたが、そこに都市化材交換する交渉を持ち駆けられた。僕の視点からは、その交渉で、相手に道材を渡して、都市化することが次のターンでできるような交渉だった。あとでその道を建てて、開拓地を建てれば良い。そして、そちらの方が強いなとも考えていた。しかし、その交渉で、僕が建てたいと思われる場所に開拓地を建てられてしまったのである。そして、生産力の差で負けてしまった。

カタンの非情さは、道や開拓地の建て方、協力体制の築き、相手との交渉において、一つのミスをすることによって、ゲームがすごく傾いてしまうことにあるのである。そのミスとカードの引き方や、ダイスの出目次第では、どうしようもないことが起る。それは、魅力であり、怖さでもあるのだ。