「考え方」を教えるのは難しい

一回途中まで書いてた記事がネットワークエラーによって消えてしまって、イライラしながら書いてる。はてなブログから別のブログに移り時かもしれない。

まぁ、ぼんやり寝ながら考えたことを、大雑把に書いてるので、意味不明かもしれん。

「考え方」を教えることは難しい

それはそうと、最近、なにかを教えたり共有する事が多くなってきていて、その度思うのは「考え方」をどうやったら、共有できるか?ということを毎回思う。

「考え方」というのは、ある「やり方」があるときに、「何のために」「何でそんなことをするのか?」「どういう目的があるのか?」「何故それをするのか?」などのというようなもので、本当に大事なもの、本質的なものだ。それはとても教える、伝えるというか、共有するというのがかなり難しいなと感じる。一方、「やり方」というのは、「手順」とか「手法」とか「技術」のようなもので、「どうすればできるか?」みたいなものだ。

「やり方」を教えるのは、比較的楽だ。「やり方」というのは、その手順にそって注意すべきことをするだけで、分かってしまうし、できてしまう。なので、多くの場合は「やり方」を教えてしまう。しかし、「やり方」というのは、現実はもっと複雑で、いろいろ要素が絡んでくるので、それをそのまま当てはめて、解決できるようなものは、あまり無いのだ。

そのまま解決できないので、別の「やり方」を探して覚えようとする。いや、それも大事なことではあるのだが、引き出しを増やして、適切な問題に対処できるようになるのは大事なのだが、そうするのいろいろなやり方に振り回されて、本質的なことに気づかないで、なにもできなくなってしまうかもしれない。

だから、「考え方」は大事なのだ。「考え方」が分かるとそれは自分のものになる。自分の物になれば、それからどうすれば良いか?が分かるのだ。

しかし、「考え方」を教えたり共有するのは難しい。自分の言葉で伝えることはできるが、それを相手の言葉で理解させるのるのは難しい。なぜなら、抽象的だし、やってみて「深く考える」ことをしないと分からないからだ。また、教えることがなかなかできないので、その結果、苦しみがある。

「早く回そう!!」と「どうやって早く回すか?」「なぜ早く回すか?」

一つ、事例がある。以前、デザインプロセスとして「早く回して、短期開発を繰り返して、ユーザの評価して、リスクを小さくやろう」としたチームがあった。そのチームはそのようなプロセスやツールを取り入れようとした。皆が、プロダクトをより良いものを作ろうとしていた。

しかし、彼らは失敗したのだ。なぜなら、「ただ、早く回そう」というスローガンがあるだけど、「どうやって早く回すか?」を考えてなかったからだ。また、「なぜ早く回すのか」も考えてなかった。

彼らは、「より最高なものにしよう!」「より最高なプロダクトを目指そう!」として、ありとあらゆる仮説を立てるのが好きだった。たとえば「この、ボタンは左であるべきか? 右であるべきか?中央であるべきか?」 などに対して、「右利きの人が多いので右の方が良いだろう」「いやいや、左から目が動くので左にあるべきだ」「いろんなリスクを考えると中央だろう」「けど多数派は右利きだ」などの議論を永遠とやっていた。

なんで、こんな議論をするか? 「最初から、最高の物をつくろう」としたからだ。「早く回そう」というのは、基本的には、最初は「悩まないで作る」ということだ。「悩むよりも、決めること、やってしまうこと」が大事になってくる。最初から、最高のものを作ろうとすればいろんなことを考慮して「悩ん」でしまい、結果早く回せなくなるのだ。そして、その「悩み」は解決することが無い。だって、どの回答も全部根拠の無い推測でしか無いからだ。

また、「良いもの」というのは誰にとって「良いもの」だろうか? 実はそれも大事なことであった。彼らは、それを「良いもの」を「彼ら自身にとって」にしてしまっているのだ。それもまたまずいことだ。本当に「良い」かどうか判断するなんて「ユーザ」でしか無い。だから、彼らの悩みはユーザと当たるしか解決する方法が無い。だから、「ユーザと当たる」ために「早く回す」のだ。

「考え方」の共有

何も知らない、「やり方」すら、分かってない人達に対して、「考え方」を教えるのは難しい。先程言ったように、言葉で伝えるのは簡単だ。しかし、多くの場合、「相手の言葉」で理解しないと意味が無いのだ。自分の言葉で伝えても、おそらく表面的な理解、さきのような「スローガン」としての理解になったり、相手は深く納得しないだろう。

では、どうやって「考え方」を伝えるべきだろうか? それは、「失敗させること」から学べるというのが一つあるように思える。先のチームでは、その失敗から、「考え方」を知るキッカケになるように思える。失敗や挫折というのは、本質を知るための一つの手段なのだ。

ただし、「失敗」しようとしなければ、たぶんそれは素質が無いのだ。諦めるしか無いかもしれないと、わりと最近思ってしまっている自分がいる。

教えるのは難しい。