「子供にでもできる」ではなく、「子供にしかできない」ということ

僕が以前、前職で、グラフィカル言語、Flowerを作ったときも思ってたことを書く

「子供にでもできる」

「子供にでもできる」。この言葉、僕がFlowerを作った時、凄くなんかもやもやして、イライラした感情を抱いた。その時は、「子供にでもできる」という事が、おそらく「大人の僕には関係のない」という感情が僕の視点から見え隠れしているからだ、思ったからだ。

だが、最近考え直してみると、そういうことでは無い気がしている。むしろ、「子供にでもできる」というのは、UIやプロダクトのデザインにとってなんの褒め言葉では無いということだ。また、「子供にでもできる」というのは、実はかなり評価が甘く馬鹿にしているという気分も実はしている。

「○○にもできる」

さて、ではなぜ、僕がイライラした感情を抱いたかといえば、そもそも「何々にもできる」という言葉自体がそもそも嫌いだからだ。「そんなの小学生でもできる」「そんなの幼稚園生にでもできる」「君はダメだな、そんなこと女にでもできる」というニュアンスに非常に近い。これは、非常に差別的な見解を持っていると思う。これらの言葉は、非常に僕は不快な言葉だ。

まぁ、僕が変に敏感なだけかもしれないが、ただ、「子供にでもできる」という言葉がまず嫌いというわけだ。

「子供でもできるUI」

次に、「子供にもできる」UIというのは全く持って、褒めてないのだ。UIを設計するときに、「子供が使う」にデザインされたUIというのであれば、そりゃそうだろう。寧ろ当然そうあるべきだ。 しかし、「子供が使う」事を想定していないデザインであれば話が違う。なぜなら、「子供が使えるUI」であるからと言って、「使いやすいUI」とは無関係だからだ。

子供と大人というのは全く違う。何が違うか? 「経験」だ。特に、大人というのは、ガラケーを使い、GUIのコンピュータを使い、キーボードを使い、ipadを使い、iPhone使って生活している。つまり、従来のUIに対して慣れているのだ。一方、子供はそうでは無い。奴等は、キーボートというのを知らないのかもしれないし、マウスというのを知らないのかもしれない。

だから、そもそも、UIに対する蓄積が全く違うのだ。とすれば、「(大人が)使いやすいUI」というのも全く代わってくる。なぜなら、既に学習したUIに似せる方が使いやすいUIになるのだ。大人は、「ああ、なるほど、たぶんここらへんに、こういうボタンがあるのだな!」と思って、UIを操作する。

それに対して、子供がそんな蓄積が無い。では、どうするか? 簡単だ、「自分達の拙い体験」で「こういう体験と、似たような動きをするだろう?」と思って行動するのだ。だから、我々が使いやすいと思うUIでも、もしかしたら、子供にとって使いにくいUIになる事は十分にありえるのだ。

「子供に使いやすいUI」を目指すのであれば、徹底的に小学生のコンテキストを調査しなければならないだろう。「子供に使いやすいUI」というのは、結局のところ「使いやすいUI」であるということにはならないのだ。

とはいえ、「子供にでも理解できそうな」とも解釈すればまだ良いのかもしれないがな...

「子供にしかできない」

さて、「子供にでもできる」ということについて考えていると、ふと、思う事があった。それは、「子供にしかできない」と考えるべきだろうということだ。

子供と大人では経験が違う知識が違う体格が違う文化が違う。だから、そもそも、全く異る存在であり、全く想像付かない人間なのだ。だから、「子供にでもできる」という考えはかなりおかしい。違う存在だからこそ、子供にしかできない可能性があるのだ

「子供にでもできる」と言ったとき、何か可能性を狭めてないだろうか?。考えを変えるべきなのだ。「子供にしかできない」と考えてみると、子供というのは、如何に思いも寄らない存在であるということを思うのだ。

子供が「想像力豊か」とか「発想力がある」とか言うのは、おそらく違う。そうでは無くて、単に「人間が違う」だけなのだ。だから、 自分とは違う発想ができるだけなのだ。

まぁ、ここまで書いておいて、言うのもって感じなのだが。僕は子供が嫌いだ。